KEIKO KOMA

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更新日 2010-01-09 | 作成日 2008-03-30

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  心に残る光景は五女山に重なり見えた歴史の悲しみです。
 
  2007年10月10日、一度キャンセルになった五女山行きが二日遅れ叶いました。中国、瀋陽の空港に降り立ち、車を走らせ五女山に向かいます。途中、車窓から見える風景は郷の秋の風情にあふれ、なつかしさに胸が動き、涙がこみ上げます。所々に枯葉が燃える煙がたち、なつかしい郷の秋の風景が煙でかすみ、涙で潤む瞳に写る時、古の光景と重なります。ふるさとの香りに包まれ山々は赤く染まり、黄に染まりその美しさに心震え、魂震えるばかりです。山道は急なカーブが続きます。その山を越えると、深く落ち着いた重厚な空気が漂い、「桓仁」と書かれた標識が心にとび込み、胸が締め付けられます。五女山のある桓仁に辿り着いたのです。桓仁の空気はふるさとの空気です。私はその空気に触れるだけでうれしくなります。本来であれば「高句麗伝説」を開催する予定であった民族広場の前にホテルが建っていました。五つ星ホテルと聞き、驚きました。五女山に来て、五つ星ホテルに泊まれるなんて夢のようです。実際は五つ星ホテルの設備は備わっていませんでしたが、部屋に入り、バスルームがあることと、お湯がでることに、私は飛び跳ね、喜びました。五女山のふもとではじめてお風呂にはいりました。いつもはお風呂にも入れず顔も洗えず、電気もつかず、朝の薄明かりの中、手探りで化粧をしたのです。
 翌朝、五女山に登りました。入り口の看板に書いてあることをガイドさんが説明してくれました。高句麗時代は天へ天へと延びる木という意味の名前だったと聞きました。私は思わず、「いだき」と叫びました。いだきと同じ意味の名前がついていたと知り狂喜しました。龍の爪と呼ばれる五女山を囲む美しい湖を眺めた時、東明王の意志を見ました。1000年、2000年先を見、生きた人の精神に触れ2000年の時を一瞬にし見ました。高句麗が滅び、王族は日本に亡命しました。その子孫である私がこの地へ来ることを東明王は見ていたと確かに感じた瞬間、生命の深奥から感謝の気持ちがこみ上げ、涙がほとばしりあふれました。その瞬間私がエチオピアへと導かれ行ったのも東明王と同じに1000年、2000年先を見ての行動だったとわかりました。精神は受け継がれ、過去、現在、未来という時間を超えて天のはるか向こうの中心に立つ光とわかりました。五女山を歩く一歩一歩は私にはかけがえのない時です。木の葉の一枚一枚に高句麗人を感じ、歩く山道のぬくもり、息吹きに高句麗人を感じ、吹く風に高句麗人の魂の声が聞こえます。この道を東明王も歩き、この湖を見、雲海を眺めたと感じるだけで喜びがあふれてきます。いつも来たい所ですがいつもこれで人生最後になるかも知れないとも感じ、大切に歩くのです。五女山を降り、昼食をとる為、食堂に入りました。朝鮮料理のお鍋を食べました。お腹がすいていたので、喜んで食べましたが、何かとっても淋しくて涙がでてきました。貧しさと、この地で生きる人は喜びがないことを身に沁み感じてしまったのです。
 1998年8月に2度目に五女山に行った時に入れてもらえずに湖の畔に佇み、涙を流し、眺めた五女山が蘇り、その場所を探しました。行き着けず辿り着いた所は五女山のふもとでした。五女山に一番近い所と感じます。私は車から降り、下を向いていると、呼ばれるようにし顔を上げたのです。目の前には今まで見たこともない大きな五女山がそびえたっていました。あまりの大きさに圧倒され、畏怖を覚え、私の胸は震えました。歴史の悲しみを見ました。同時に東明王の悲しみに出会いました。胸の奥から突き上げる慟哭を押さえ込みずっと五女山と真正面に向かい合いました。父を感じ、愛おしさに魂揺さぶられました。「高句麗の父、東明王」に出会ったのです。私は生涯ここに来ることはなくとも、この光景は永遠に心に刻まれるでしょう。今も私の心には五女山が生きています。高句麗の父と共に。。。