KEIKO KOMA

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更新日 2010-01-09 | 作成日 2008-03-30

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   私は高句麗の歴史を受け継ぎ生まれ、東アジア最大の統一国家を作り上げた栄光の歴史も、国が滅ぶ悲しみの歴史も、自分の運命となり生きざるを得ない人間の宿命をいたく感じ生きてきました。子供の頃は、国が栄えた栄光の時をあらわすかのように、光に包まれ、何でもよく出来ました。人と比べられることが嫌で、比べられない程秀でることを目指し、頑張りました。運に恵まれ、何でも秀で出来ました。が、ある日、自分の運は落ちるとはっきりと見え、感じた瞬間があります。その時から、何をやっても幸運に恵まれず、光の当たらない人生と変わりました。運がないことの悲しみも身をもって経験しました。
   いだきしん先生にお会いした後、生まれもっての運命が解かれ、真の自分で生きるようになってからは、過去の歴史を繰り返し生きる運命ではなく、自分で切り開く運命と変わりました。やっと生きていけるとお腹の底から喜びが生まれ、生きている実感が生まれました。得体の知れぬ運命に振り回されることは不安であり、生きることは恐怖でした。自分で自分の人生を切り開き生きられるようになり、今まで感じた不安、恐怖から解放されました。
   ある時、いだきしん先生は「高麗恵子の詩」と題して詩を書いて下さいました。「何でもできるのに、何もしたくない」という一節を読み、私は思わず、笑ってしまいました。さすが先生はよくわかると、あまりに適格な表現に笑ってしまったのです。私は何も出来ないように見えるらしく、周りの人は私の面倒を一生懸命みようとしてくれます。私は人の気持ちに応えようとして、やって下さることは受け容れ、にっこり笑って「ありがとうございます」と言うことが習性となっていました。先生がおっしゃる「お姫様」の様に、手足を縛られ、自由を奪われながらもにっこり笑うようになっていました。「お姫様では世界は変えられない」と、20数年前、スペインのグラナダに行った時にふと言って頂いた一言が心に響き、お姫様からの脱却をはじめました。不思議ですが、もともと何をしても出来ていた経験があるので、やれば出来ました。ありがたいことです。そのうち、出来ることは当り前になりました。けれど、私には檀君という大いなる聖なる力が共に在ったり、高句麗をつくった初代の王 東明王をはじめ、高句麗を一挙に拡大した好太王、国が滅び日本の地に亡命しながらも生き延びてきた若光王、歴代の高句麗王が共に在りました。大いなる力に支えられ、出来てきたのです。が、ややもすれば、自分でやっているという意識になってしまう愚かな自分が時々顔を出します。私の体は、ありがたいことに豊かにはたらいています。いだき講座を受け、生命にとって負担がかかる生き方が改善されましたし、いだきしん先生のコンサートを何百回も経験し、とても豊かな生命のはたらきと感受性が養われています。時々顔を出す愚かな自分の意識は、てきめんに体を痛め、苦しみとなり、動けなくなり、気づくことが出来ます。今年の9月15日前までの私は、「この世の春」と感じる程、いくつもの事が同時に出来、大変スピードも速く、何でも出来ました。それに加え、「勝ち時」が見える感覚が子供の頃からあります。私は、賭け事が得意でした。もともと運命がみえましたので、勝ち運もみえました。勝負事は強く負けたことはありません。理由は、勝ち運が来た時にはっきりと見えるからです。この感覚が更に蘇えりました。闘いは得意でした。今の時代は戦と考えればわかりやすいというお話を、いだきしん先生からお聞きした時は、我意を得たりと元気がみなぎり、益々何でも出来るようになったのです。好太王が戦に強く、勝ち続けた感覚はよくわかります。きっと私がみえるように勝ち運がみえたのでしょう。
 8月の意識が自由になっていくプロセスを経、迎えた9月は、「この世の春」が花開くと、意気揚々と希望に満ちていました。疲れも知らず、気づくと寝ることも食べることも忘れ、動き続けていました。自分の危機を意識出来なくとも、生命は教えてくれました。倒れることにより、ストップをかけてくれました。この時、東明王も好太王も死ぬまで走り続けたのだということもよくわかりました。死んだこともわからない程、絶好調で駆け抜け生き続けたのだと実感出来ます。今の時代は、いだきしん先生がいらっしゃいますので、私は、長く生きる機会を与えられました。この先の人生は、東明王も好太王も知らない人生です。アルメニア「高句麗伝説」コンサートを収録された音楽を聞いた時、私の生命は大いなる聖なる世界にいだかれ、支えられ、活かされていることをはっきりとみました。私は、生まれつき何でも図形でみえます。自分の力で生きている生命ではないと見えた瞬間、衝撃が全身を貫きました。悲しみの涙か、感謝の涙か、今だに正確に表現出来ませんが、静かに流れ落ちる涙と共に新しい生命を受け容れました。今までの私は終わったことを告げられたように感じ、悲しみもありながら、私の新しい生命が包まれ、支えられている聖なる世界のやさしいことが生命に沁み、生命在る事は奇跡なのだと深く頭を下げ、奇跡の瞬間瞬間を活かされている生命に、感謝の気持ちよりありません。
 この先の人生は計り知れませんが、人間がこんなにもやさしく、清らかで、豊かに生きられる存在であることを、我生命をもって経験させて頂き、生まれる気持ちを表現させて戴く機会があり、ありがとうございます。