KEIKO KOMA

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更新日 2010-01-09 | 作成日 2008-03-30

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 9月14日の夕方。私は、KEIKO KOMA Skyrocket Centerにて心模様の製作をする予定で、向かいました。Skyrocket Centerに着くと、まず地下の「高麗」の看板にご挨拶しようと、いそいそと地下への階段を下りていきました。「高麗」の看板の前に正座し、目を閉じた時、私は東明王と、東明王に重なるもう一人の存在をはっきりと見ました。初めて生きている東明王に会ったかのようでした。姿形、目鼻立ちまで鮮明にあらわれ、等身大に立っている東明王を見ました。晴れやかな笑顔が印象深い、とてもさわやかな美しい人でした。又、とっても恰好良い美男子でした。この人だったら、一目見たら誰もが心魅かれ、共に生きていきたいと望むだろうと感じます。五女山の風、光まであらわれ、まるでそこは五女山でありました。恋しい五女山の地で真に会いたい東明王に会っているようで、私は、気づいたらむせび泣いていました。よく見ると、東明王と重なりもう一人の存在がどなたなのかは気になりました。私は、東明王の父と心の中で呼んでいました。
 あまりの衝撃的な出来事に心は震え、身も震え、足元が覚束ない状態で3階まで昇りました。私の製作室であるその部屋の空間は異次元でした。私は、地に足が着いている感じがなく、とても不安になりました。慣れない空間で、ブローチ、ループタイ等を作り始めました。手も震え、ラインストーンを何度も落としました。私は、ほとんど百発百中と言っていい程、何でも一回で的にはまり、無駄なことがありませんでしたので、何度もラインストーンを落とす状態に余計心が慌て、手が震え、又落としてしまうのでした。最後に、私の好きなブルーのシルバーの土台のブローチを作りました。これは高句麗の火焔の模様をデザインし作られたシルバーの土台です。このブローチを作る時は、ブローチの土台まで落としてしまう程手が震えていました。ブローチの土台もラインストーンも何度も落としながらも、私はこれだけは作ろうと必死で頑張りました。心の中で、「生きていたら、明日の大地の声の時に私がこのブローチを着けさせてもらおう」とつぶやいていました。その異変に気づくと同時に、私はいだきしん先生のおられる赤坂研修所に電話をかけていたのでした。何故かけたか自分でもわからず、電話に出た人に「急がないので、先生の時間のある時にお電話頂けますか」と言って切りました。胸も高鳴り、体も震えていました。私は、いつも瞬間行動を起こす時があります。よく電話をし、相手方が出てから、私は何の用事で電話をかけたのかと考えることがあります。この時もそうでした。少し経ち、先生がお電話を下さいました。私は瞬間、涙を流し、泣きながら「よくわからないのですが、何か変なのです」と話していました。まさか泣き出してしまうとは思いませんでした。先生は面談の時間であったにも関わらず、ピアノの部屋に行き、ピアノを弾いて下さいました。このことから、私がとらえている以上に私はおかしいのだと感じ、不安で胸が一杯になってきました。と言うより、本当は不安で一杯なのに自覚出来なかった状態が自覚出来たのです。自覚すると足腰はガタガタと音がするように震え、体はフラフラで気分は悪いです。いつも何かをやり始めると何もかも忘れ、没頭します。体の異常に気づいてはいても、やり終わるまでは休めないという意識がはたらき、休むことはしません。今まではそれで良かったのですが、この時は、体が限界となっていたのです。私が着けようと決めていたブルーのブローチがその日の最後のブローチでした。全て作り終えました。ピアノを弾いて頂き、少し落着いた頃を見計らい、急いで家へ帰りました。家に帰り、先生より血圧を計ってもらいなさいと言って頂き、笑美ちゃんに計ってもらうと、何と200を越えていました。いつも血圧は低い私でしたので、200と聞いただけで引っ繰り返る程驚き、本当に引っ繰り返ってしまいました。急いで顔だけ洗ってベッドに入ったものの、血圧は下がりませんでした。一夜明け、頭痛で起きられず苦しみました。笑美ちゃんが枕元に来て血圧を計ってくれたり、様子をじっとみてくれました。笑美ちゃん自身も具合が悪く休んでいたのに、しっかりと動揺もせず側にじっといてくれました。とても心強く、ありがたくて涙があふれます。愛ちゃんは心配で一杯な様子は生命から伝わってきます。こんな良い人を心配で一杯にさせてはいけないと心より申し訳ない気持ちになり、胸の内は涙で一杯でした。後から笑美ちゃんも心配で一杯だったけど、見せてはいけないと動揺を抑え込んでいたと聞きました。   
9月15日は、午後から応用コースがあり、その後には「大地の声」があります。よりにもよってこの日に倒れるとはと情けなく感じつつも、これが現実です。行くよりありません。血圧は高いながらも、車を運転し、会場に向かいました。頭痛で気分も悪く、頭を起こしていることが耐え難い状態でした。応用コースのピアノでは、火あぶりにあったように、体中熱く、いたたまれない程しんどく、身の置き所がありませんでした。お話はよく聞いていましたが、生きた心地がなく、自分が何処にいるのかもわからなくなってしまうように気が遠くなっていく時もありました。応用コースが終わり、立っていることも座っていることもままならず、畳のある楽屋にて横になりました。横になっても地獄の苦しみでした。横になっても身の置き所がない状態は同じです。「大地の声」開演1時間10分位前となりこの頭痛としんどさで本番を行えることは到底あり得ない状態でしたので、先生のいらっしゃる楽屋を訪ねました。先生は、頭に手をあてしばらくし、「等身大の東明王がいる」とおっしゃいました。私と等身大の東明王がドキッとした音まで聞こえたのではないかと感じる程、内面が動きました。等身大の東明王とは、昨日私が表現していた言葉そのままですので、驚きました。改めて先生は何故これ程までにわかるのだろうかと感心する程「等身大の東明王」という言葉に驚きました。畏れ入りました。私が泣き出しそうになると「泣くようなことではない」とおっしゃいました。少し横になりたい旨お伝えし再び畳の上に横になりました。身の置き所のないいたたまれない程の苦しみはなくなっていました。少しうつらうつらした時、頭のてっぺんから足の爪先まで私と一体であった東明王が抜けていったことをはっきりとわかりました。それは、あたかもはめ込まれたネジがはずれた様に音を立て、私の体にはまっていた枠がはずれたのです。体が温かくなり、汗もにじみ、私は起き上がりました。急いでメイクをし、リハーサルへ行きました。多分開演45分位前だったでしょう。声を出すと吐き気がし、詩を詠めないリハーサルでした。スタッフは私の異常な状態はすぐに察知しました。本番前に具合が悪いことは今までも何度もありましたが、あの時のような私は初めて見たと皆言っていました。普通の悪さではないのは一目でわかっても、先生がいらっしゃるから何とかなると感じるよりなかったと後から聞きました。私は声を出すと吐き気が襲ってくることが困り、ピアノを弾いておられる先生の所へ行きかがみこみ誰が見てもわかる吐き気をもよおす状態を「困った」と一言言ったら先生は「何も困らない」と簡単におっしゃったのです。私は「困りませんか」と言うと、「困らない」とあっさりとおっしゃったので、そうですかと立ち上がり、楽屋に戻り、衣装に着替え、本番に臨みました。
 無事「大地の声」を行え、涙込み上げ感謝しました。今思えば、生まれたての真の自分の「大地の声」でした。いつもでしたら、本番が終わるとすっかり抜け出し、まるで別人のように元気になっていました。ところがこの時は、すぐに良くなる事がなく、その夜も血圧が上がり、苦しみました。先生にお電話したらピアノを弾いて下さいました。その時「もう一人いる」とおっしゃいました。私にはわかっていました。昨日KEIKO KOMA Skyrocket Centerの「高麗」の看板の前で見た東明王と重なるもう一人の存在は東明王の父であることを・・・。先生は、「東明王のお父さんだね」とおっしゃった時、「そうです」とすぐに答えられました。心の中では、「さすが先生はよくわかる」と感心していました。私は、8月20日の京都での3回目の「高句麗伝説」を前にし、東明王の父のことを詩に書いていました。が詠みませんでした。時が来ていなかったのだと感じています。東明王の父、解慕漱は天帝の子です。高句麗は天帝の子から生まれています。
私は、2007年10月10日、五女山が一年で最も美しい日と言われるこの日に五女山へ行く事が叶いました。先生のお体の調子が悪く、本来2日前に出発し集安から五女山に入る予定の旅でしたが、出発当日、中止となりました。ところが、2日遅れで行けることになり叶ったのでした。先生のお体の調子が良くなかったこともあり、何か悲しく寂しさが漂う五女山を歩きました。一昨年の10月に五女山へ行った時は大はしゃぎでした。けれど、この時は心静かに歩きました。何となく人生でこれが最後に五女山を訪ねることになるのではないかという気持ちが胸の内をかすめ、寂しくてたまりませんでした。
 10年前に母が亡くなった直後に訪ねた時、五女山に入れてもらえずに涙をのみ五女山を眺めた湖の畔を再び訪れたくて、ドライバーに告げたのですが、行く所、行く所違う場所に連れて行かれ、夕闇迫り、これが最後と言い連れていかれた所は、五女山に最も近い所でした。私が行きたかった場所ではありませんでしたが、五女山に最も近い地に立ち、導かれたようにも感じました。先生は車から降り撮影していました。私は、五女山に最も近い地に立ちながら、五女山を仰ぐことが出来ませんでした。何か避けたい気持ちがあったのです。こわくもありました。心の中で覚悟を決めると共に、顔を上げた瞬間、目の前に迫った五女山と真正面に向かい合うと同時に私の瞳からは涙がほとばしりあふれ、ぬぐう間もなく服の上まで流れ落ちていました。歴史的瞬間を見たのです。それは歴史の悲しみであり、高句麗の父との出会いでした。先生の悲しみとも感じました。何かとんでもないものを見てしまった様な、本当は見てはならないものを見てしまった様な畏れ多い気持ちで、頭を下げるよりありませんでした。運命の出会いでした。例え生涯2度と五女山に来ることはなくとも、私はこの出会いを心に生きていくと心を決め、泣きながら五女山を後にしたのです。車窓から見える五女山をずっと目で追い、心に刻みました。五女山のある桓仁県を離れた時、五女山の姿は見えなくなりました。私はずっと振り返り五女山を追っていた姿勢を前向きに戻し、2度と振り返ることはしませんでした。心に生きる五女山、高句麗の父と共に生きていくと心の中で言っていました。帰りの道中はもの悲しく、見える風景は全て淋しい色をしていました。この出会いを思い出し、私は詩を書いていたのでした。
 高句麗の父と私が呼ぶ人は東明王と重なり私と共に在りました。けれど、その存在も私から離れていく時が来ました。私の意識を作ってきた高句麗の枠が外れました。高句麗により守られてきました。けれど、守られ生きていることは真の自分で生きることではないのです。随分前から「高句麗によって真の私は隠されている」と先生から言われていました。守られていることは、全てにおいてわかっていました。気性も生き方も考え方も高句麗そのものでした。生まれた時からというより生まれる前から宿められた高句麗という衣を脱ぐ時が訪れるとは想像もしたことがありません。アルメニアにて示された「宇宙の生まれる3段階前の世界によってより答えはない」というメッセージはその世界があらわれるということを意味しています。全ての源である光があらわれるとは真の自分があらわれることであると見えてはいましたが、現実にはこの様なことになるのかということを身をもって経験し、事の重大さに驚き、畏れを感じるばかりです。
 

つづく