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Al Kifah Al Arabi誌 2005年3月28日号掲載記事より抜粋

日本の詩人 高麗恵子
私の詩は未来の窓を開く宇宙の神秘のささやき


先週、詩人、高麗恵子は作曲家の斎藤忠光およびマネージャーの吉目木を伴ってレバノンを訪問し、数日を過ごした。レバノン滞在中には、スール(ティール)市を訪問し、古代フェニキアの港を見学した。スール市では、音楽と映像と詩による「公平な平和と人々の対話」と題されたコンサートが催されることが決まっている。スール市はこの文化芸術のプロジェクトをスール南部フェスティバル委員会の後援の下で来る8月後半に行なうこととした。市では副市長であるマフムード・ハラーウィ氏がプロジェクトの始めからフォローをしている。アブドル・ムフスィン・アル=フセイニ市長ならびに市の文化活動の責任者、ジョルジュ・ガニーマ氏その他の関係者と一行との会合も行なわれた。次いで、一行はジェイタの鍾乳洞を訪問した。というのは、その鍾乳洞内で音と詩と光によるコンサート開催の可能性を調査するためだった。NBCテレビは一行との長時間のインタビューを行なった。すでに去る2月には雑誌「アル=キファーハ・アル=アラビー」は詩人、高麗恵子が代表を務めるNPO高麗について総合的な研究を発表している。この団体は、日本全国やタンザニア、イランのペルセポリスやエチオピアその他で野外コンサートを開催してきており、アラブ諸国その他、世界中で更にコンサートの開催を望んでいる。

 緑と花々に満ちた日本の魅力ある自然から撮られたカラー写真で彩られた上質の印刷によって詩人、高麗恵子が上梓した「高句麗伝説の再発見」という題名の繊細な感覚に溢れた詩集(日本語・英語)は、その宇宙的な神秘を特徴とするものである。彼女の詩集は希望と未来への多様な窓を開くものであり、幾多の絶望と挫折の段階の克服を促すものだ。それは誠実な人々の心になお持続している価値を通して、自然との合一、過去と現在との統合を願う祈りにも似た清透な方途をもってなされる。詩集は真理と善と美のまわりに人々を統合する思想を提案している。

 高麗恵子と斎藤忠光は「詩」の言葉というものは「対話」のための純粋無垢の方途であるという考えで一致している。音楽は「表現」と人間の交流におけるもっとも気品に満ちた方法である。
 だから、人間的な感情や感覚から発せられる音楽においては地位やその他の様々な違いは消えてしまう。戦争の終結と戦闘の停止によるだけでは平和が訪れることはない。平和というのはその最も深いところでの意味は、あらゆる事柄におけるポジティブな「生産」の実現にある。すなわち、そこでは芸術と文化の創造が明かされることにある。自由が抑圧されている状況では平和はありえない。失業が蔓延したり、健康や社会保険のないようなところには平和はない。環境を壊すようなところには平和はない。平和はあらゆる障害を取り除くところに存する。それは自己和解の中に存する。すなわち、自分自身との和解であり、他の人々との和解の中にあるのだ。われわれは皆、愛の言葉を信じている。それをもってわれわれの歴史を書き換え、われわれの価値と祖先の価値の輝きを取り戻そう。「われわれの現代」を形作っている構成の持つ特質に対してより一層の理解を努めよう。そうすることにより、われわれの未来のビジョンも明らかになるはずだから。

 (中略)


詩人高麗恵子が日本語を発するとき、聞いている人は彼女の言葉が通訳され前に透き通ったクリスタルの容器に注がれる緑色の花弁から滑り落ちる水滴の妙なる響きのような彼女の声のトーンの前に置かれる。
 彼女に話しかける人が耳を傾けるとき、彼女はあたかも言葉の精神だけでなく、心の中を読むようにすべての善と気遣いと注意を呼び覚ます。
 一方、音楽家斎藤忠光についていえば、彼は寡黙な人である。瞠目すべきエレガンスをもってその鋭い視的感覚を保持している。彼はコンサートの「目と耳」といえる。つまり、視覚と音楽的な即興に際立っている。
 彼は常に自分の感覚の中に隠されたものを表現する。そして、音楽と詩と人々の間の対話を通して、平和と寛容のメッセージを伝えることを自分自身に命じる。それが民族や肌の色、更には宗教といったことの違いを越える人類救済のメッセージだと
信じているのだ。

レバノン大学 芸術学部教授 ガジ・カフージ